成田山福泉寺紹介

 当成田山は、中城山を背に、太平洋を前面にして、朝日が海の底から昇ってくる景勝の地に鎮ります。昭和50年大本山成田山御本尊分霊を勧請して以来、地元熱誠ご信徒の帰依を受け、年々歳々興隆発展し今や名実ともに沖縄における不動尊霊場の総府として特に正月、節分祭と毎年県下最高の賑わいを記録し人々の信仰を集めております

本堂

生目八幡大明神

水子

交通安全祈願

不動明王御真言

御朱印

成田山福泉寺由緒、沿革

成田山福泉寺 由緒 沿革
 当成田山は、中城山を背に、太平洋を前面にして、朝日が海の底から昇ってくる景勝の地に鎮ります。そも々、当山の開山は、第二次世界大戦後からそのきざしが有りました。金子妙福住職は、終戦後幾度となく沖縄の地を訪れ、戦没者の御魂の安らかならん事を祈り、牛島中将の最後の言葉「沖縄県民、かく戦えり後世、特別の御高配を賜わらんことを」に、深く涙していました。
 その折、沖縄タイムス社々長 上地一史氏が、久留米成田山に幾度なく参詣され、金子住職に厚い信頼と崇高の想いを抱かれ、戦後沖縄県民の灰燼に帰した心の荒廃をいやし、人々の心に灯をともしてほしいと懇請しました。金子住職はいたく、心を動かされ、沖縄成田山の寺建立を強く決意しました。同時に、上地一史氏の要請により、大城組社長 大城鎌吉氏を初めとする沖縄県各界並びに地元篤信有志が会員となり、昭和45年沖縄成田山奉賛会が発足しました。奉賛会には、次々と多くの県民からの浄財が集まり、成田山建立の気運は高まりました。併せて、金子妙福住職は沖縄成田山建立の為に、沖縄の地を行脚され、その聖地に謁えるべく奔走されました。折しも、中城の地に降り立った時、「日いづる地」の御声が金子住職に聞こえ、緋の色の着物を着た女性と崇高な気高い武士の姿が瞬時みることができました。そして中城山の頂上の東の太平洋を一望に見渡せる場所に至りました。金子住職はこの地に沖縄成田山の開山を決意し、太平洋の海の底から朝日の昇る地「日いづる邦。」に辿りつきました。それが中城城跡です。誠に中城城主護佐丸公のお導きそのものです。
 その後、奉賛会の尽力により、寺建立の浄財は集まりましたが、折りも折りオイルショックの影響で建設費が当初見積よりも二倍に高騰し、工事着工が大幅に遅れました。大城鎌吉奉賛会々長や経済界の尽力により、そして、金子妙福住職の多大な法力によって、昭和50年11月23日、本堂建立、入仏落慶法要が厳修されました。又、昭和53年7月30日、沖縄県下の道路が本土と同様に右から左通行と変更になり交通事故が起きないようにとの願いをこめ、大本山成田山新勝寺より橋本照稔僧正を大導師に迎え730交通安全柴灯大護摩供を主要都市那覇を始め数ヶ所にて厳修致し、御本尊不動明王の広大無遍の御利益を頂き一件の事故も起きませんでした。開創10周年記念事業と致しましては、庫裡、信徒会館の建立。又、年々増える参拝者の為の立体駐車場を20周年記念事業とし、25周年では交通安全祈祷殿を新築落慶し日々沖縄県民の交通安全のご祈願を厳修致しております。
 顧みますと当末寺は、昭和50年大本山成田山御本尊分霊を勧請して以来、地元熱誠ご信徒の帰依を受け、年々歳々興隆発展し今や名実ともに沖縄における不動尊霊場の総府として特に正月、節分祭と毎年県下最高の賑わいを記録し人々の信仰を集めて、今日に至っております。

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